ヨハネの福音書を読んでいて、ある種の緊張に気づくことがあります。

例えば、「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」(3:17)。これは比較的よく知られた言葉で、御子が遣わされたのは世を罰するためではなく救うためであることが、明確に述べられています。

ところが、同じ福音書がこのようにも語っています。「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである」(5:22)。「そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった」(5:27)。さらに9章では、イエスご自身がこう言われます。「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」(9:39)。

御子はさばくために来たのではない。と同時に、御子はさばきの権威が委ねられた方であり、ご自身が「さばくため」に来たと語られている。これはヨハネの福音書の中に置かれた、繊細な緊張です。

それでは、このような緊張をどのように理解したらよいのでしょうか。一つの読み方として挙げられるのは、「派遣の目的」と「到来の効果」を区別することです。

まず、3章17節が語っているのは、御子を遣わされた父の目的です。その目的は、世を罰することではなく、救うことにあります。その一方で、5章27節や9章39節が語っているのは、その到来が結果として引き起こす出来事です。光が世に来ることで、その光に向かう者と、光から目を背ける者とが分かれることになります。ですので、ここにおける「さばき」というのは、罰を能動的に下す行為というよりは、光が来たことそのものが生み出す現象だと言えます。

ヨハネの福音書はそれを別の言葉でも語っています。

そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。

ヨハネによる福音書3章19-21節(口語訳聖書)

このことから、「さばき」とは、外から下される判決ではなく、「光」の到来によって応答する側の本質が露わになることだと言えます。そしてそれが、ヨハネの福音書が語る「さばき」の中身です。

ですが、これだけでは「まことのさばき主」として来られたというイエスの核心には届きません。ヨハネ福音しょ9章のテキストは、もう一段深いところを示しています。

9章は、生まれつき目の見えなかった盲人をイエスが癒すところから始まります。そして、その癒しをめぐって、パリサイ人たちが癒された盲人を尋問する場面が長く続きます。そのやり取りの中で、彼らはイエスを「罪人」と決めつけ、その判定に従わない盲人を、最終的に会堂から追い出してしまいます。そして、この一連の出来事で明らかになっていることは、彼らこそが、ここでは「さばく者」として振る舞っているという事実です。聖書を知り、律法を知り、共同体の権威を持つ自分たちには、誰が罪人で誰がそうでないかを判定する権利がある。そのような確信のもとで、彼らは行動していることが浮き彫りになっているのです。

ところが、その直後にこのようにあります。

イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。 彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。 イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。 すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。 そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。

ヨハネによる福音書9章35-39節(口語訳聖書)

ここでの「人の子を信じるか」という言葉。これは些細な描写に思われますが、その意味は極めて重要です。なぜなら、パリサイ人たちが追い出したその人を、イエスは自ら探し出して出会われ、人によって裁かれ、共同体から排除された者の前に、「人の子」(すなわち神からさばきの権威を委ねられた方)が立たれたからです。

ここで見えてくるのは、イエスがまことのさばき主であるというのは、パリサイ人たちが行使していたような「さばき」をより強力に行使される方であるという意味ではない、ということです。それどころか、まったく逆だと言えます。

パリサイ人たちは、人を裁いて追い出しました。その一方で、イエスは、追い出された者を見つけ出されました。ここに同じ「さばき」という言葉が用いられても、その内実はまったく逆だということがわかります。まことのさばき主とは、罰するために権威を行使される方ではなく、追い出された者を見つけ出すために、その権威を用いられる方なのです。

そのように読むとき、3章17節と「人の子=さばき主」というイエス像は矛盾しないことがわかってきます。3章17節が否定しているのは、「罰するために御子が遣わされた」という理解であり、「人の子=さばき主」が肯定しているのは、神からの権威を委ねられた方が、その権威を救うため(つまり、追い出された者を見つけ出すため)に用いておられる、という姿です。両者は同じ一つの真理の異なる側面、派遣の目的と、到来の効果として、整合的に読むことができます。

このような点を踏まえるなら、9章の一連の出来事は、ヨハネの福音書全体のさばき神学が一つの場面に凝縮された縮図のように見えてきます。パリサイ人たちが体現していた「裁き」とは、自分たちの基準で他者を選別し排除することでした。これに対して、イエスが体現された「さばき」とは、人によって排除された者を探し出し、自らを示し、信仰へと招くことだったのです。

私たちが「神のさばき」と聞いたときに思い浮かべるイメージは、ともすれば前者に近いものだと思います。誰かを断罪し、選別し、排除する力としての神。そのような神のイメージを、私たち人間はどこかで内面化していることがあるのではないでしょうか。しかし、ヨハネの福音書が語るさばき主の姿は、そのようなイメージを根本から変えるものだと言えます。さばきの権威を委ねられた方は、その権威を見つけ出すために用いられます。つまり、さばきの真の目的は、人を切り捨てることではなく、見出すことのうちにあるのです。

これは、聖書が語る神がどのような方であるかについて、深いところで方向づけを与えるものであるように思われます。