クリスマスにその誕生を祝い、イースターにその復活を記念する。名前を知らない人はまずいないでしょう。けれども「イエス・キリストとは、いったいどんな人物だったのですか」と問われると、言葉に詰まる方も多いのではないでしょうか。

この記事では、二つの角度からイエスに近づいてみます。ひとつは、一世紀のパレスチナに実際に生きた歴史上の人物としてのイエス。もうひとつは、教会が二千年にわたって「主」と告白してきた信仰の中のイエスです。この二つは切り離せるものではありませんが、分けて見ることで、かえってその姿が立体的に見えてきます。

① 歴史の中のイエス:一世紀パレスチナに生きた一人のユダヤ人

イエスは、ローマ帝国の支配下にあったパレスチナ地方、ガリラヤのナザレという小さな町で育ちました。ユダヤ教徒の家庭に生まれ、ユダヤ人として律法に親しみ、会堂に通って育ったと考えられます。三十歳前後で公の活動を始め、およそ三年のあいだ各地を巡り、最後はエルサレムでローマの処刑法である十字架刑によって死にました。

この大きな枠組みは、聖書だけが語っていることではありません。一世紀末から二世紀初めにかけてのローマの歴史家タキトゥスや、ユダヤ人歴史家ヨセフスの著作にも、イエスという人物とその処刑への言及が残されています。今日、イエスが歴史上実在した人物であること自体を疑う専門の歴史家はほとんどいません。議論があるのは「実在したかどうか」ではなく、「その生涯と出来事をどう理解するか」なのです。

② 何を語り、何をしたのか:教えと働き

イエスの宣教の中心にあったのは、「神の国」あるいは「神の支配」という言葉でした。それは、神が王として世界を治める時が近づいている、という宣言です。

イエスはこのことを、多くのたとえ話で語りました。からし種のたとえ、放蕩息子のたとえ、よきサマリヤ人のたとえ。それらはいずれも、身近な情景を通して神の国のありさまを示すものでした。また「山上の説教(垂訓)」と呼ばれる教えの中で、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と語り、当時の常識を大きく超える生き方を示しました。

そして、イエスは社会の周縁に置かれた人々——病を負う人、取税人(徴税人)、罪人とされた人々——と進んで食卓を囲みました。当時、誰と食事をするかは、誰を仲間と認めるかを意味しました。イエスのふるまいは、神の国が「正しい人」だけのものではないことを、身をもって示すものでした。

福音書はまた、イエスが数々のいやしの業を行ったと伝えています。ここで、現代の私たちはひとつの問いにぶつかります。つまり、これらのいやしを、どう受けとめればよいのか、という疑問です。

よく聞かれる説明のひとつに、「実はそれは一種の医療行為や心理的な働きかけであって、超自然的なものではなかった」という見方があります。近代以降、奇跡を自然法則の枠内で説明し直そうとする試みは、繰り返しなされてきました。

この見方を考えるうえで、新約聖書学者のN.T.ライトの議論が示唆に富みます。ライトはおおよそ次のように論じます。私たちはつい、奇跡を「自然法則が破られたかどうか」という近代的な問いの枠で考えてしまう。しかしイエスと同時代のユダヤ人にとって、いやしや解放の業は、まず「神の国が今、到来しつつあることのしるし」として理解されたものでした。問題は「物理的にあり得るか」ではなく、「この出来事は何を意味するのか」だったのです。

この視点に立つと、「医療行為にすぎなかった」という説明が見落としているものが見えてきます。それは出来事の事実性だけではありません。当時の人々がそこに見た意味、つまり、神が今ここで王として働き始めた、というしるしとしての意味が、まるごと抜け落ちてしまうのです。

ここで大切なのは、これを「だから奇跡は科学的に証明できる」という主張にしないことです。ライト自身も、証明という土俵には立ちません。問われているのはむしろ、「どの説明が、起きた出来事の全体を最もよく説明するか」ということなのです。

③ なぜ十字架で死んだのか

イエスの活動は、当時の宗教指導者たちとの緊張を高めていきました。神の国を語り、神にしかできないはずの罪の赦しを宣言し、安息日の慣習にとらわれずに人をいやす。こうしたふるまいは、既存の秩序への挑戦と受けとられました。

最後の過越の祭りのとき、イエスはエルサレムで逮捕され、ローマ総督ピラトのもとで裁かれ、十字架刑に処されました。十字架は、ローマが反逆者や奴隷に科した、最も残酷で恥辱に満ちた処刑法でした。

歴史的にはここまでが事実の輪郭です。しかし教会は、この死に、単なる一人の処刑以上の意味を見いだしてきました。すなわち、これは私たちのための死であった、ということです。この「十字架の意味」については、当サイトの救済論の記事群であらためて掘り下げています。ここでは、イエスの死が歴史の事実であると同時に、信仰にとって決定的な出来事であった、という点を確認しておきます。

④ 復活:信仰の分かれ目

イエスの物語は、十字架では終わりませんでした。三日目に、弟子たちは「イエスはよみがえった」と語り始めます。そしてこの告白こそが、打ちひしがれていた弟子たちを再び立ち上がらせ、キリスト教会を生み出す原動力となりました。

福音書は、空になった墓と、よみがえったイエスが弟子たちに現れたという証言を伝えています。

この復活を、私たちはどう受けとめればよいのでしょうか。ここが、信仰の最も深い分かれ目です。

ひとつの見方は、復活を弟子たちの主観的な体験として理解するものです。悲しみのあまり彼らがイエスの幻を見た、あるいは、イエスの教えが心の中で生き続けたことを「復活」と表現したという説明です。

もうひとつは、復活を実際に起きた出来事として受けとめる立場です。ここでもライトの議論が参考になります。彼はおおよそこう論じます。もし弟子たちが単に「イエスの霊が生きている」と感じただけなら、当時のユダヤ教の語彙の中には、それを言い表す言葉がいくらでもあったはず。にもかかわらず、彼らは「復活した」という、本来は世の終わりに起こると信じられていた出来事を表す言葉を、ただ一人イエスについて用いた。なぜそんな前例のない語り方が生まれたのか。それを説明するには、何か実際に起きたと考えるのが最も筋が通る、というのです。

繰り返しますが、これは数学のような証明ではありません。けれども、「弟子たちの思い込み」という説明が、彼らの語り方の異様さや、その後の教会の爆発的な広がりを十分に説明できるのか、という問いは、誠実に向き合うに値するものだと言えます。

⑤ 信じる者と信じない者:昔も今も

ここで、改めて考えてみたいことがあります。

しばしば「昔の人は科学を知らなかったから、奇跡や復活を素朴に信じたのだ」と言われることがあります。しかし、福音書そのものが、その見方を否定しています。

復活したイエスが弟子たちに現れた場面を、マタイによる福音書はこう記します。

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。

マタイの福音書28章16-17節(口語訳聖書)

弟子のトマスは、復活の知らせを聞いても、「自分の指をその傷あとにさし入れてみなければ、決して信じない」と言い張りました。当時の人々もまた、疑い、確かめ、つまずいたのです。同じいやしを目にし、同じ証言を聞きながら、信じた者もいれば、信じなかった者もいました。

これは示唆的なことです。つまり、信じるか信じないかは、その人の知能の高さや、生きた時代の進み具合で決まるのではない、ということです。1世紀の人々も、21世紀の私たちも、同じ出来事の前に立たされ、それぞれに応答を求められている。その意味で、私たちは古代の人々と、案外近い場所に立っているのかもしれません。

⑥ 「まことの神、まことの人」:教会はイエスをどう理解したか

復活ののち、弟子たちはイエスを、単なる偉大な教師や預言者としてではなく、「主」と呼ぶようになりました。それは、ユダヤ人が神に対してのみ用いてきた呼び名でした。

ここから、教会は長い時間をかけて、ひとつの告白へとたどり着きます。イエスは、神でありながら、同時にまことの人間であった、という告白です。

これは、頭で簡単に割り切れる事柄ではありません。実際、初期の教会は、「イエスは神であって、人であるように見えただけだ」とする見方や、逆に「すぐれた人間ではあっても、神ではない」とする見方とのあいだで、長く議論を重ねました。そして5世紀のカルケドンという町でもたれた会議で、教会は「イエス・キリストはまことの神であり、まことの人である」という線を確認します。

なぜ教会は、この一見矛盾した告白を手放さなかったのでしょうか。それは、どちらか一方を削ってしまうと、福音そのものが崩れてしまうからでした。もしイエスが神でなければ、その死と復活は私たちを救う出来事ではなくなります。もしイエスが人でなければ、神は私たちの現実の苦しみの中に、本当には入ってこられなかったことになります。「まことの神、まことの人」という告白は、神が私たちと同じ場所にまで来てくださった、という福音の核心を守るための言葉だったのです。

ぼくどくメモ

私自身、イエスのいやしや復活をどのように語るのか、長い間、戸惑いながら考えてきました。説明しようとすればするほど、かえって何か大切なものが欠けていくような気がしたのです。

けれども牧師として色々な方々と関わるうちに、少しずつ思うようになりました。福音書は、私たちに「信じやすい話」を差し出してはいません。むしろ、疑う弟子、つまずく群衆を正直に書き残しています。聖書は、信じることの難しさをよく知ったうえで、なお証言しているのだと感じます。

だとすれば、私が誰かに伝えるべきなのは、隙のない証明ではないのかもしれません。私自身が、この疑いやすい出来事の前で、それでもなぜ立ち続けているのか。その応答を、正直に差し出すことなのだと思わされます。


参考文献:N.T. ライト『The Resurrection of the Son of God』(SPCK, 2012年)ほか。

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