「救いとは何か」シリーズの第5回。これまで、罪・贖罪・義認について考えてきました。

第3回で扱った義認は、信仰によって神の前に「義と認められる」という、信仰者の身分(ステータス)に関わる出来事でした。神の子とされたあとの信仰生活はどう続いていくのか。神の前に義とされた者が、その身分にふさわしく生きていく過程。これがプロテスタント神学では聖化と呼ばれる事柄です。

今回は、Constantine R. Campbell の Paul and Union with Christ: An Exegetical and Theological Study (Zondervan, 2012)に多くを学びながら、パウロの聖化論について考えていきます。

聖化とは何か

聖化と訳されるギリシャ語ハギアスモス(ἁγιασμός)や動詞ハギアゾー(ἁγιάζω)は、もともと「聖別する、聖なるものとして取り分ける」を意味する語です。

パウロにおいて、この語は二つの意味で用いられます。

一つは決定的聖化(definitive sanctification) です。すでに信仰者が、キリストにあって神のものとして取り分けられたという過去の出来事を指します。

あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。

コリント人への第一の手紙6章11節(口語訳聖書)

聖化は、ここでは過去の完了した行為として語られています。

もう一つは漸進的聖化(progressive sanctification) です。信仰者がキリストの形に似せられていく、継続する過程を指します。

兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 14目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

ピリピ人への手紙3章13-14節(口語訳聖書)

この二重性は、終末論シリーズで繰り返し触れてきた「すでに/いまだ」の構造そのものです。聖化はすでに与えられている地位であり、同時にいまだ完成へと向かう道のりでもあるのです。

キリストとの結合という枠組み

Campbell の本書の核心的な主張は、パウロにおけるキリスト者の生(聖化を含む)が、「キリストとの結合(union with Christ)」という枠組みの中でこそ適切に理解されるということです。

Campbell の調査によれば、パウロの書簡に登場するキリスト者の身分・活動・特徴のほとんどすべてが、キリストとの結合と何らかの形で結びついています。「神に生きている」「罪の宣告から自由とされている」「一つのからだ」「新しく造られた者」「神の子」「キリストにあって一つ」「キリストと共に死んだ」「キリストと共に葬られた」「キリストと共によみがえらされた」「キリストと共に栄光を受ける」「キリストを着た」。こうした身分にまつわる言語はすべて、キリストとの結合の現実を表現しています。さらに、語る、誇る、互いを迎える、働く、証する、従う、喜ぶ、堅く立つ、互いに勧め合うといった信仰者の活動もまた、「キリストにあって」(in Christ:エン・クリストー、ἐν Χριστῷ)行われるものとして描かれているのです。

このような原語レベルでの調査に基づき、Campbellは、パウロにおいてキリスト者の生のあらゆる側面は、信仰者のキリストとの結合によって何らかの仕方で形作られている、と結論づけます。

Campbellによれば、このキリストとの結合は四つの面を持つ豊かな概念です。

  • 結合(union):信仰によるキリストとの一致、相互内在
  • 参与(participation):キリストの死・復活・昇天・栄光化への参与
  • 同一化(identification):キリストの領域における位置と主への忠誠
  • 編入(incorporation):キリストの体への組み入れ

聖化は、これら四つの面によって特徴づけられたキリストとの結合から、必然的に流れ出てくる生のかたちです。聖化は信仰者が独力で達成する道徳的努力でもなく、神が信仰者の外側で行う出来事でもな、キリストと一つにされた者がその結合の現実を生きていく、その全体が聖化なのです。

このキリストとの結合という枠組みは、実は改革派の聖化論の伝統ともよく響き合います。カルヴァン『キリスト教綱要』第3篇は、義認も聖化も、信仰によるキリストとの結合から流れ出る「二重の恵み」として論じます。Campbellの釈義は、こうした改革派の古典的な理解を、新約聖書の言語的・釈義的分析の側から下支えする作業として読むこともできます。

キリストと共に死に、共によみがえる

パウロの聖化論の中心的な聖句が、ローマ書6章です。

それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。

ローマ人への手紙6章3-4節(口語訳聖書)

信仰者はバプテスマにおいて、キリストの死と復活に「あずかった」とパウロは述べます。これは単なる象徴ではありません。信仰者の古い自分は、キリストと共に死んだのです。そして、キリストと共に新しいいのちへとよみがえったのです。

しかし、この「すでに」起きた出来事は、信仰者の日常において、今も継続的に実現されていきます。ここに、Campbellが指摘するパウロの聖化論における終末論的緊張があります。

一方で、信仰者はキリストと共にすでに死んで、よみがえらされた者です。これは過去の歴史的出来事(キリストの十字架と復活)への参与として、すでに起きたことなのです。他方で、信仰者はその死と復活の意味を、日々の生活の中で生きていきます。Campbell が指摘するように、ローマ6章2節で、パウロは「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか」と問いかけます。この問いの暗黙の答えは、信仰者が日々の経験において罪に死ぬよう努めなければならない、ということです。キリストの死と復活という過去の出来事は、信仰者の生に絶えず刻印を残し続け、日々の歩みの中で参与され続ける現実なのです。

ここで Campbellが注意を促す重要な点があります。それは、キリストと結合された信仰者は、その瞬間に外見的に劇的に変わるわけではないということです。むしろ、その結合の意味が、日々の歩みの中で次第に表に現れ出ていく。そのような過程として聖化は進んでいくのです。

聖化はなぜ「召し」なのか

ここで一つの問いが生じます。救いが全くの恵みによるのなら、なぜ信仰者は依然として聖く生きるよう求められるのでしょうか。

Campbellは、この問いが現代の信仰者を悩ませる古くて新しい問題であることを正面から取り上げます。

Since salvation is by grace, the importance of righteous living can be muted in the name of avoiding moralism or legalism. While such -isms ought to be avoided in the Christian life, it does not follow that holiness and righteous conduct are not the proper calling for believers.

救いは恵みによるものですから、道徳主義や律法主義を避けるという名目で、義なる生のもつ重要性が薄められてしまうことがありえます。たしかに、そうした「〜主義」は信仰生活において避けられるべきものです。しかしだからといって、聖性と義なる行いが信仰者にとって本来の召しではない、ということにはなりません。

Campbell, Constantine R.. Paul and Union with Christ: An Exegetical and Theological Study (English Edition) (p. 466). (Function). Kindle Edition.

Campbellの議論はこう続きます。キリストの死と復活の目的は、罪のうちにあった人間を聖なる神との関係に回復させることでした。だとすれば、その回復された関係を生きること、それが聖化された者の生の意義です。聖化は救いの後から「足し算」されるものではありません。それは、救いの目的そのものを、今ここで生きていくことに他ならないのです。

ぼくどくメモ

聖化について理解する上で、二つの誤りに陥らないようにすることが重要だといつも思わされています

一つは道徳主義の誘惑です。「義認は神のわざだが、聖化は私たちが頑張るもの」と捉えてしまう傾向。これでは結局、信仰生活が律法主義に逆戻りしてしまいます。

もう一つは静観主義の誘惑です。「すべては神が完成してくださる」と言って、信仰者の積極的な参与を消してしまう傾向。これでは、パウロが繰り返し求める「歩む」「努める」「目指す」といった動的な召しが空洞化します。

Campbellが示すキリストとの結合の枠組みは、この二つの誤りを避ける視座を与えてくれます。聖化は、キリストと結合された者が、その結合の現実を生きるという、神と人との不思議な共働の出来事なのです。

牧師として礼拝でこのテーマを扱うとき、聞き手にどう語るかをいつも慎重に考えます。「もっと努力しなさい」でもなく、「神に任せきりにしなさい」でもない、その間の道。それを語る言葉を見つけるのは、いつも難しい作業です。

ですが、パウロの聖化論が示すのは、信仰者に「自分の力で生きなさい」と催促するものではなく、「あなたはすでにキリストにあって新しくされている。そのあなたが、今、ここでそれを生きなさい」と招く道だと言えます。そこに、福音と倫理の不思議な調和があるのだと感じます。


参考文献:Constantine R. Campbell, Paul and Union with Christ: An Exegetical and Theological Study (Grand Rapids: Zondervan Academic, 2012).