このたび、少しばかり農業に挑戦してみることにしました。
きっかけは、子どもの大好物がさつまいもであることと、日本の農業人口が減少していく中で、ささやかでも社会の役に立つ何かができないかと考えたことでした。そんな思いを巡らせていたところ、思いがけないご縁から、小さな畑を借りられることになったのです。
振り返れば、神学生の頃にも友人と畑作りに挑んだことがありました。 手入れもされず草が伸び放題だった場所を、一から道具を揃えて耕した日々。今思えば、あの時間は厳しい学びの合間の、静かな休息の場だったように思います。 初めて蒔いた種は「大根」でした。インターネットで調べながら手探りで植え、毎日成長を見守り、ようやく小さな芽を出した時のこと。これからの成長を楽しみにしていた矢先、数日後にはその芽が跡形もなく消え去っていました。あの時の喪失感は、今でもよく覚えています。
実は、野菜を育てることの難しさは、さらに遡って小学生の時にも味わっていました。 学校の授業の一環で枝豆を育てていたのですが、どうにも実りが悪く、家族の勧めで「夏休み子ども科学電話相談」に電話をしてみたのです。ラジオ越しによく聞く声の先生と直接話せることに驚きつつ、他の子どもたちのように何か有益なアドバイスがもらえると期待していました。 ところが、枝豆の状況を詳しく伝えたところ、「それはアドバイス以前に、あなたの育て方が良くないですね」と、率直すぎる指摘を受けてしまったのです。もちろん先生に悪気はなかったはずですが、あまりに正直な回答に、子どもながらに深くうなだれた苦い記憶です。
土に向き合い、命を育てるということは、決してこちらの思い通りには進まないものです。過去の経験からその厳しさを知っているからこそ、今回はしっかりと知識を身につけ、謙虚に取り組みたいと気を引き締めています。
また、個人的に密かに楽しみにしているのは、農作物に向き合う肉体的な労働と、聖書を学ぶ思索の営みが、どこかで深く重なり合うのではないかという期待です。 神様が造られた自然の豊かさに直接触れ、自分の手で土をいじる中で、机の上だけでは得られない「気づき」や神学的思索の深まりがあるのではないかとおぼろげながら考えています。
農業に関しては、まったくの素人であり、過去には見事な失敗も経験していますが、これから始まる土との関わりの中で何を教えられるのか…。焦らず、ゆっくりと向き合っていこうと思います。
聖書と農業
イエス・キリストのたとえ話の多くが、「種蒔き」「ぶどう園」「収穫」といった農業の言葉で語られています。それは当時の社会が農業中心だったからだけでなく、土を耕し、種を蒔き、成長を待つという自然のサイクルが、「神様が私たち人間をどのように愛し、育ててくださるか」を一番わかりやすく教えてくれるからかもしれません。
