はじめに

「原罪」という言葉から、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。多くの方は、アダムがエデンの園で犯した罪が、私たち全人類に「遺伝」のように受け継がれてきた、というイメージを持っておられるかもしれません。

しかし、近年の聖書学やパウロ研究において、この伝統的な理解は本当にパウロが言わんとしたことなのか、という問いが議論されています。今回は、原罪論の伝統的なパターンを整理しつつ、パウロが描く「罪」の独特な姿に注目しながら、もう一つの読み方を考えてみたいと思います。

少し長めの記事になりますが、最後まで読んでいただければ、原罪をめぐる聖書の証言が、伝統的なイメージよりもずっと豊かで立体的なものだと感じていただけるはずです。

1. 「原罪」という言葉の由来

そもそも「原罪 (original sin)」という言葉自体は、聖書の中には登場しません。これはラテン語で peccatum originale と呼ばれ、四世紀の北アフリカの神学者アウグスティヌスが造った造語です。

もちろん、アウグスティヌス以前から、罪が普遍的なものであるという理解は教会の中にありました。エイレナイオスは幼児が洗礼によって「新たに生まれる」と語り、オリゲネスは「罪の真の汚れ」からの清めを語り、キプリアヌスは「古き死の感染」という表現を用いています。罪が単に個人の問題ではなく、人類全体に及んでいるという感覚は、初代教会の中にすでに存在していました。

しかしアウグスティヌスは、ここからさらに踏み込みました。彼は、アダムが犯した罪そのものが、生殖を通して全人類に物理的に「遺伝」していくのだと論じたのです。これがいわゆる遺伝罪論であり、長く西方教会の標準的な見方となっていきました。

ところが、現代の聖書学において、この遺伝罪論はもはや支持しがたいことが明らかになっています。これは、聖書本文の解釈という点では、すでに多くの研究者たちが合意していることです。問題は二つあります。

一つは、ローマ5:12の解釈の問題。もう一つは、そもそも「罪が遺伝する」という発想自体が、パウロ自身のテキストの中には見当たらないという問題です。

順に見ていきましょう。

2. ローマ5:12 を読み直す

このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。

ローマ人への手紙5章12節(口語訳聖書)

この最後の「すべての人が罪を犯したので」と訳された部分は、ギリシア語で「ἐφ’ ᾧ (エフ・ホー) πάντες ἥμαρτον(パンテス イマルトン)」という表現になっています。

ここをラテン語訳聖書 (ウルガタ) は「彼にあって (全員が罪を犯した)」と訳しました。アウグスティヌスはこのラテン語訳に立って、「全人類はアダムの中ですでに罪を犯したのだ」と論じ、遺伝罪論を構築していきます。

しかし、現代の聖書学では、この訳は文法的に支持しがたいとされています。「エフ・ホー」は「〜なので」「〜の結果として」を意味する表現であり、「彼にあって」と訳すのは無理がある、というのが多くの研究者たちの一致した見解です。

そして、より本質的な問題があります。Eerdmans Dictionary of the Bible の「原罪」の項目を執筆したジョセフ・ウィマーは、こう簡潔にまとめています。

Paul is aware of the dominion of Adam’s sin over all humanity, but does not yet speak of heredity; that was the later contribution of Augustine.
パウロは、アダムの罪が全人類に対して支配 (dominion) を及ぼしていることを認識していたが、まだ遺伝 (heredity) については語っていない。それは後のアウグスティヌスの貢献である。

Joseph F. O.S.A. Wimmer, “Original Sin,” in Eerdmans Dictionary of the Bible, ed. David Noel Freedman, Allen C. Myers, and Astrid B. Beck (Grand Rapids, MI: W.B. Eerdmans, 2000), 993.

つまり、パウロが語っているのは「アダムの罪が全人類に対して支配を及ぼしている」という事態であって、「アダムの罪が生殖を通して遺伝していく」という事態ではありません。「支配 (dominion)」と「遺伝 (heredity)」は、まったく異なる概念です。アウグスティヌスは、パウロの「支配」を「遺伝」に置き換えてしまった。そう言えるかもしれません。

それでは、パウロが本当に語っていた「アダムの罪の支配」とは、どのようなものだったのでしょうか。ここから、現代の聖書学が明らかにしてきたパウロの罪理解に踏み込んでいきましょう。

3. パウロにおける「諸力としての罪」

それでは、パウロは「罪」をどう描いているのでしょうか。

注目すべきは、パウロが用いる「罪 (ハマルティア)」という語の独特な使い方です。彼はこの語をほとんど単数形で、しかも擬人化して用います。罪は「支配する」(ロマ5:21、6:12)、「人を奴隷にする」(ロマ6:17)、「賃金を支払う」(ロマ6:23) 。あたかも罪が、何か人格をもった力であるかのように描かれているのです。

新約学者である山口希生氏は、興味深い観察を提示しています。福音書、特にヨハネ福音書では、十字架への道がしばしば「サタンへの勝利」として描かれます (ヨハネ12:31)。ところが、パウロ書簡、特にロマ書には「サタン」や「悪魔」という言葉がほとんど登場しません (ロマ16:20 のみ)。にもかかわらず、ロマ書5章から8章にかけては霊的反逆の問題が深刻に取り上げられています。そこでは、サタンに代わって「罪」という言葉が、神に逆らう霊的諸力の代表として用いられている。そして、そのように考える新約学者は多い、と山口氏は紹介しています。

このような読みは、決して二十世紀の新しい聖書学者が突然発明したものではありません。教父エイレナイオスは、キリストが「罪」「死」「サタン」に勝利されたことを繰り返し語り、罪を「殺す」べき敵対的な力として描きました。宗教改革者ルターも、1531年のガラテヤ書講解の中で、罪を「全地を支配し、治め、すべての人を奴隷状態に捕え、服従させる」もの、さらには「最大、最強の神」とまで呼んでいる、と山口氏は指摘しています。罪を宇宙的な力として捉える視点は、教父にも、宗教改革者にも、確かに存在していたのです。

二十世紀以降の聖書学において、この古い視点はあらためて精緻化されました。山口氏や、後に紹介する岡谷和作氏が紹介しているように、ドイツの新約学者ケーゼマンや、その流れを継いだベーカー、マーティンらは、パウロの罪理解を「黙示文学的」と呼びました。罪は、人類の歴史と宇宙そのものに食い込んだ、敵対的な「力」である、と言うのです。岡谷氏の論文で紹介されているアメリカの新約学者B.R.ガヴェンタも、「ローマ書における宇宙的罪の力」という論文の中で、ロマ書における罪は「人類を奴隷とし、神に敵対する諸力なのである」と論じ、罪を「宇宙的テロリスト」とまで呼んでいます。

つまり、パウロにとって「罪」とは個人の道徳的失敗にとどまるものではなく、人を取り囲み、引き入れ、支配する諸力としての性格を持つのです。

4. 「諸力としての罪」だけでは説明しきれないこと

ここまで読んで、「では原罪とは、結局のところ宇宙的な力が私たちを支配しているということなのだ」と結論したくなるかもしれません。しかし、話はそれほど単純ではありません。

岡谷和作氏は、「『律法違反』と『諸力』――罪論の包括的理解を目指して」(福音主義神学、54号、2025年)という論文で、この点を鋭く指摘しています。岡谷氏は、山口氏の議論を受けつつ、もし「諸力としての罪」のみで罪を理解しようとすると、いくつかの大切な側面が落ちてしまう、と論じます。

第一に、ローマ1章を見れば明らかなように、そこで描かれている罪は「人間の意図的な神への違反と偶像礼拝」です。人類は外部の諸力に操られて罪に陥ったのではなく、自ら神を否定し、自分自身の神々を造ることを選んだ。ガヴェンタ自身も、「パウロによる人類の描写は、他の力によるのではなく、人類自身による行動で幕を開けている」と認めている、と岡谷氏は紹介します。

第二に、ローマ5:12もまた、「一人の人によって」、すなわちアダムの行為に焦点を当てています。岡谷氏が紹介する新約学者サイモン・ギャザコールは、ローマ書において罪が動詞として「個人の行い」として描写されている箇所も多く、パウロの基本的な罪理解は「個人の罪」だと結論できるほどだ、と論じています。

第三に、神学的な問題もあります。罪をもっぱら第三者的な諸力として描いてしまうと、なぜ私たちに罪の責任が問われるのか、という問いに答えにくくなります。「私の中の悪い性質ではなく、外から来る力が私に罪を犯させた」とすれば、責任の所在が曖昧になってしまう。また、岡谷氏が紹介するルター派神学者カール・ブラーテンが警告するように、罪が貧困や抑圧や差別と等値されてしまえば、「人間の深さは何ら根本的に変わらないという深刻な腐敗状態」が見落とされてしまうのです。

つまり、「諸力としての罪」は、伝統的な「個人の違反としての罪」を置き換えるものではなく、補完するものとして理解されなければなりません。両者は二者択一ではないのです。

岡谷氏は、両者を統合する一つのモデルとして、社会学などで用いられる「創発理論」を援用しています。個々の人間の違反行為を構成要素として、それを超えた「罪の体」が創発し、その諸力が社会構造や文化を通して再び個々人に内在化していく。マシュー・クロアスムンというパウロ研究者が博士論文で展開しているモデルです。こちらにの詳細については、ぜひ論文をお読みいただければと思います。

5. Campbellの「領域 (realm)」モデル

個人の罪と諸力としての罪の統合を、Constantine R. Campbellは新約聖書本文の釈義の中から、より直接的に提示しています。

Campbell によれば、パウロの神学の中心には「領域 (realm)」という発想があります。罪と死が支配する領域があり、その対極にキリストの恵みと義が支配する領域がある。人類はそのどちらかの領域に属し、その支配のもとで生きるのです。

この発想に立つと、ローマ5:19はこう読めます。

While it is common to understand the verse as indicating a type of imputed sinfulness extended from Adam (the one man) to all other members of the human race, this is not the most likely reading. Given the concept of realm and dominion, Adam’s disobedience most likely represents a route or pathway or entrance into the realm of sin and death. Adam’s disobedience establishes the route through which the many were made sinners (5:19a). Incidentally, this reading does not undermine the doctrine of original sin nor the universal depravity of humanity, because the descendants of Adam have no choice but to be born under the realm of sin and death. Once Adam opened the door, as it were, to the realm of sin and death, all people became subject to its rule.

この節は、アダム (この『一人の人』) からその他すべての人類へと罪深さが転嫁されているのだ、と理解されるのが一般的である一方で、それは最も自然な読み方ではありません。領域と支配という概念を踏まえれば、アダムの不従順は、罪と死の領域への、まさに通路、つまり入り口を意味していると考えるのが最も自然です。アダムの不従順を通して、多くの者が罪人とされる道筋が確立されたのです (5:19a)。付け加えれば、この読み方は原罪の教理や人類の普遍的堕落性を弱めるものではありません。アダムの子孫は、罪と死の領域のもとに生まれる以外の選択肢を持たないからです。アダムが、いわば罪と死の領域への扉を開いたその瞬間から、すべての人がその支配の下に置かれることになったのです。

 Constantine R. Campbell, Paul and the Hope of Glory: An Exegetical and Theological Study (Grand Rapids, MI: Zondervan Academic, 2020), 67.

ここに、「個人の違反」と「諸力としての罪」の統合点があります。

アダムの不従順は、確かに個人の意志による違反行為でした。その行為は、罪責が物理的に「遺伝」していくような仕方で子孫に転嫁されたのではありません。しかし、その行為は世界に対して決定的な意味を持ちました。罪と死が支配する領域への入り口が開かれたのです。一度入り口が開かれた以上、アダムの子孫は、その領域に生まれ落ちる以外の選択肢を持ちません。

そして注目すべきは、Campbellがこの読み方をもって「原罪の教理や人類の普遍的堕落性を弱めるものではない」と明言している点です。むしろ、アウグスティヌス以来の伝統が「遺伝」という概念で表現しようとしてきた人類の普遍的堕落の事実を、聖書本文により忠実な形で語り直していると言えるのです。

そして、この領域の中で生きる私たちには、なお意志と責任があります。パウロはローマ6章で、信仰者たちに対してこう命じます。「だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。」(ロマ6:12-13)。Campbellが指摘するように、ここで「支配」と訳されている動詞は、まさに5:21で罪が「王として君臨する (basileuō)」と語られていた動詞と同じものです。

つまり、領域の中で罪が「君臨する」のを許すか、あるいはキリストにあって神の支配のもとに生きるかは、なお信仰者自身の意志的な選択に関わっているということです。アダムの行為が領域の扉を開き、私たちはその領域に生まれました。しかし、キリストにあって新しい領域に移された私たちは、もはや古い領域の支配を受け入れる必要はないのです。

6. もう一度「原罪」を問う

ここまで読んでくださった読者の中には、「では伝統的な原罪論は誤っていたのか」という問いを持たれた方もおられるかもしれません。しかし、そう単純に切って捨てる必要はないだろうと思われます。

アウグスティヌス以前のエイレナイオスやオリゲネスやキプリアヌスが感じ取っていた「罪は人類全体に及んでいる」という直感、そして遺伝罪論が表現しようとしてきた「すべての人は救いを必要としている」「人類は自力ではこの状況から抜け出せない」という真理は、パウロの罪理解の中核にあるものです。それを「遺伝」という枠組みで表現したのがアウグスティヌスの貢献だったとすれば、私たちはそれを「領域」という枠組みで表現し直すこともできるのです。

私たちはアダムの罪責を遺伝のように継承したから罪人なのではなく、アダムが開いてしまった罪と死の領域に生まれ落ち、その支配のもとで誰一人として罪を犯さずに生きることができない。そして、その領域の中で、私たち自身もアダムと同じように、神への意図的な反逆と偶像礼拝に向かう存在となっている。そう理解する方が、パウロのテキストの息づかいにより近いように思われます。

そして、この理解は救いのイメージをも豊かにしてくれます。キリストにある救いは、単なる個人的な罪の赦しを超えて、罪と死の領域からの解放、そして愛する御子のご支配に移す出来事 (コロサイ1:13) として描かれるようになるのです。

ぼくどくメモ

「自分はクリスチャンなのに、なぜこんなに罪との戦いに苦しむのか。」

これはクリスチャンであっても、むしろクリスチャンであるからこそ抱く問いであるように思います。そして、この問いの背後には「原罪」の問題があると言えるわけですが、アウグスティヌス的な遺伝罪論の枠組みだけでこの苦しみを理解しようとすると、どこか「自分の中の悪い性質」の問題にしか目が向かないことがあるように感じます。

しかし、罪を「領域」として捉えるとき、自分の戦いはより大きな霊的な現実の一部であることが見えてきます。私たちはアダムが開いてしまった領域に生まれ、その支配の中で生きている。しかし、それでもなお、私たちは無力な犠牲者なのではなく、古い領域の中にあっては、自分の意志で罪を選び、神に背いてきた。その意味において、責任は確かに私たちにあると言えます

しかし、キリストにあって私たちはすでに「暗闇の力から救い出されて、御子のご支配に移されている」(コロサイ1:13)のだと、聖書は語ります。だからこそ、罪との戦いは、もはや絶望的で個人的な心の内面の戦いではなく、すでに勝利を約束された王の御業のうちにある営みだと言えるのです。そして、その王の支配のもとで「罪を支配させない」という日々の選択を、私たちは自分自身の意志で行うことができるようになるのではないでしょうか。

このような視点は、自分の罪の問題に絶望することなく、反対に、極度な楽観主義に陥ることなく、「適切に」罪と向き合う助けとなるように思います。


参考文献

Joseph F. Wimmer, “Original Sin,” in Eerdmans Dictionary of the Bible, ed. David Noel Freedman, Allen C. Myers, and Astrid B. Beck (Grand Rapids, MI: W.B. Eerdmans, 2000).

Constantine R. Campbell, Paul and the Hope of Glory: An Exegetical and Theological Study (Grand Rapids, MI: Zondervan Academic, 2020).

山口希生「宇宙的な力としての罪」『福音主義神学』第48号 (2017): 21–44.

岡谷和作「『律法違反』と『諸力』――罪論の包括的理解を目指して」『福音主義神学』第54号(2025):149-170.