*シリーズ「ゴーマンと参与の神学」の最終回(第6回)です。過去の記事もご参照ください。

このシリーズでは、これまで5回にわたってマイケル・ゴーマンの神学を辿ってきました。「キリストにあって(in Christ)」という参与の現実から始まり、ゴーマンの主要な提唱である十字架の形に生きる「クルシフォーミティ」、共十字架としての義認、神の似姿への形成であるテオーシス、そして福音そのものになる宣教へと順に見てきました。

最終回となる本記事では、これまでの紹介から少し離れ、これらの議論が、日本のプロテスタント教会、とりわけ福音主義の信仰にとって何を意味するのかを考えます。客観的な解説というより、一人の牧師としての応答です。

「参与」という視点

シリーズ全体を通して見えてくるのは、「参与」という視点の射程の広さです。

福音主義に立つ教会にとって、「信じれば救われる」という言葉は、もはやお馴染みのものであり、これまでの伝統において福音の中心として受け継がれてきたことそのものだと言えます。そして、それは聖書で語られていることも事実です。しかし、ゴーマンの議論が示すのは、「信じる」ことを「参与する」という文脈から切り離すと、信仰義認それ自体の意味が捉えにくくなる、という点です。

第3回で見たように、ゴーマンにとって信仰義認とは、キリストと共に十字架につけられ、共に復活するという、参与的な出来事でした。「信じる」とは、ある事実に同意することではなく、キリストの物語のなかに組み入れられることです。この理解に立てば、信仰義認は、参与という土台の上に置かれてはじめて、内実を保つことができます。要するに、参与の視点は、信仰義認を否定するものではなく、それが本来根ざしていた文脈を示すものだということです。

「信じる」ことと「生きる」こと

ゴーマンの議論のもう一つの論点は、「信じる」ことと「生きる」ことの関係です。

福音主義では、しばしば「信仰さえあればよい」という理解に傾いてきた面があることは否めません。行いは救いの条件ではない。これは大切な真理です。しかし、この真理がそれだけ単独で強調されると、信仰と生き方が切り離され、「信じてさえいれば、どう生きるかは別の問題だ」という理解を生みやすくなります。

ですが、福音書に描かれたイエスの言動においては、繰り返し問われているのは「生き方そのもの」です。イエスは、従う者に、自らを低くし他者のために自らを与える道を歩むよう求めました。そこでは、信じることと生きることは、決して切り離されてはいないのです。

この点を踏まえるなら、ゴーマンの参与論は、この「信じる」と「生きる」を一つに結び直すものとして重要な意味を持つことがわかります。クルシフォーミティ、すなわち十字架の形に生きることは、信仰とは別物ではありません。それは、キリストに参与するという「信仰そのもの」の現れです。参与の視点に立てば、「信じる」ことと「生きる」ことは、二つの別々の事柄ではなくなります。なぜなら、信じることが、すでにキリストの物語を生きることだからです。

ここに、ゴーマンの功績の一つがあると言えるでしょう。つまり、「信仰さえあればよい」と理解されがちであった聖書のメッセージ(主にパウロ書簡に由来する)を、生き方を問うイエスの教えと結び合わせた、ということです。言い換えるなら、パウロとイエスを対立させるのではなく、参与という一つの現実のうちに、両者を据え直した、ということです。

福音主義は何を問われているか

これらの議論は、福音主義に対する一つの問いを含んでいます。

参与論は、宗教改革が回復した「信仰によって救われる」という福音を否定するものではありません。むしろ、その福音の射程を広げるものです。同時に、次のことも指摘できます。つまり、福音主義は、その福音を、ときに限定された形で受け取ってきたのではないか、ということです。「信仰」を「参与」から、「義認」を「生き方」から切り離し、結果として、福音を信じる者の外側で完結する出来事として理解してきたのではないか、ということです。

これは、伝統的な福音主義の否定ではなく、福音主義に立つ教会にとって、その内側から提起される自己点検としての問いです。そして、もし信仰理解に参与という視点を回復する余地があるのなら、それは従来の立場を放棄することではなく、その立場の根を掘り下げることを意味します。参与論は、福音主義を脅かすものではなく、その立場が本来持っていた射程を取り戻す機会を提供するものなのです。

ここで一つ、断っておきたいことがあります。こうした問い直しは、しばしば持ち出される「リベラルか、保守か」という対立軸で捉えるべきものではない、ということです。参与論を受け入れることは、信仰義認を手放してリベラルな立場へ移ることではありません。逆に、参与論を警戒して退けることが、保守的な信仰を守ることになるわけでもありません。問われているのは、右や左という立場ではなく、福音そのものをどれだけ深く受け取るか、という一点です。ゴーマン自身、メソジストの信仰に立ちながら、カトリックの神学校で、正教会をも含むエキュメニカルな場に身を置いて、この神学を紡いできました。彼の歩みそのものが、保守とリベラルという区分が、必ずしも有効な物差しではないことを示しています。

このように、福音主義に立つ教会が自らの立場を見直していくことは、重要なことであるように思います。信仰義認という遺産を保持しつつ、それを参与という文脈の中に置き直すことは、伝統の否定ではなく、伝統の更新です。

日本の教会にとって

最後に、日本という場所における意義について考えてみたいと思います。

日本において、キリスト教会は小さな群れです。この状況において、参与という視点は、一つの方向を示します。第5回で見たように、福音に「なる(becoming)」教会は、その存在そのものによって福音を証しします。数が少なく、力が弱くても、互いに仕え合い、世のために自らを与える共同体の歩みそのものが、福音の証しとなりうる、という理解です。

これは、効率や規模を基準とする宣教観とは別の地平を開きます。確かに、福音を、より多くの人に効果的に届けることは、これまで宣教の中心的な課題とされてきました。それは大事なことです。しかし、ゴーマンの参与論が提起するのは、より根本的な問いです。つまり、教会自身が、キリストの物語に参与して生きているか、その生き方そのものが福音を体現しているか、ということです。

参与・クルシフォーミティ・テオーシス・宣教。このシリーズで辿ってきたゴーマンの神学は、一つの現実の諸側面でした。キリストの物語に参与して生きること。十字架の形に造り変えられ、神の似姿へと向かい、その生き方そのものによって福音を証しすること。ゴーマンによれば、これがパウロの語った福音の、そしておそらくはイエスご自身が生きられた福音の、核心にあるものです。

現在のところ、ゴーマンの邦訳書は出ていません。そのため、ゴーマン自身も、その神学も、まだ多くの人には知られていません。しかし、この「参与」という視点は、信仰義認を中心に据えてきた日本のプロテスタント教会にとって、自らの信仰理解を見つめ直す、確かな手がかりとなるはずです。


このシリーズで参照したゴーマンの著作:

Michael J. Gorman, Cruciformity: Paul’s Narrative Spirituality of the Cross, 20th Anniversary Edition (Grand Rapids, MI: William B. Eerdmans, 2021).

Michael J. Gorman, Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul’s Narrative Soteriology (Grand Rapids, MI: William B. Eerdmans, 2009).

Michael J. Gorman, Becoming the Gospel: Paul, Participation, and Mission (Grand Rapids, MI: William B. Eerdmans, 2015).