最近、読書習慣に関する興味深い二つの文献に触れました。細かい具体論はさておき、両者に共通する本質的な主張は、習慣化の鍵が「行動の目標設定」ではなく「アイデンティティの再構築」にあるという点です。

私たちは習慣を形成する際、一日何ページ読むといった行動(Do)のノルマを自らに課しがちです。しかし、そのようなアプローチは多くの場合、長続きしません。そうではなく、自らを本を愛し、本から学ぶ「読書家」であるという存在(Be)のセルフイメージを先に確立させることが重要になります。自分は読書家であるという揺るぎない自己認識が根底にあれば、空き時間に自然と本を開くという行動は、無理なく後から付随してくるという認知的なメカニズムです。

この自己認識が行動を生むという順序は、キリスト教信仰の核心、とりわけ新約聖書のエペソ人への手紙が展開する論理構造と合致しているように思います。

エペソ書全体を俯瞰すると、そこにパウロが意図した明確な二部構成が見えてきます。前半の1章から3章において、パウロは具体的な道徳的命令をほとんど口にしていません。彼はひたすら、私たちがキリストにあって選ばれ、赦され、愛されているという新しいアイデンティティの確立に紙幅を割いています。そして後半の4章に入って初めて、その召しにふさわしく歩みなさいという具体的な行動の勧めが展開されるのです。パウロの神学において、存在(Be)は常に行動(Do)に先行します。

その真理が最も美しく結晶化しているのが、私たちが恵みのゆえに救われた「神の作品」であるという、エペソ書2章の力強い宣言です。

原語のギリシア語で「ポイエーマ(最高傑作、詩)」と呼ばれるこの言葉は、信仰者のアイデンティティの根幹を成しています。私たちは、立派な行動を積み重ねた結果として神の作品に昇格するのではありません。すでにキリストの恵みによって最高傑作として創造されているがゆえに、神があらかじめ備えられた良い行いへと、自然に歩み出していくことができるのです。

私たちはしばしば、クリスチャンとしてのふさわしい行動によって自分の信仰を証明しようと焦り、それができない現実に思い悩みます。しかし、そのような時こそ、焦点を当てるべきは行動の改善ではなく、自らに与えられたアイデンティティの再確認ではないでしょうか。

神の愛されたポイエーマ(作品)であるという、揺るぎない事実の上に立ち返ること。その深い安心感の中から引き出されるよい行いのみが、重い義務の呪縛から私たちを解放し、神への喜ばしい応答へと変えてくれるはずです。