クリスチャンにとって「成長」とは何でしょうか。
おそらくそれは様々な側面から説明できることだと思われますが、その中でも中心的な事柄は「キリストの愛を知ること」ではないでしょうか。
どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
エペソ人への手紙 3:16-19(口語訳)
ここで著者は、「人知をはるかに超えたキリストの愛」を知り、「あなたがたが満たされるように」と祈ります。しかし、そのようなキリストの愛というのは「人知をはるかに超えた」ものであって、到底人間の頭で理解できるようなものではありません。だからこそ、その愛を知るためには、神に満たされる必要があるのです。
しかし、それではすぐにでも満たされて、愛を知ることができるかと言えば、そういうわけでもないように思われます。ここで重要だと思われる点は、「愛に根ざし愛を基として生活すること」です。どんな人でも、愛が全くない人はいません。たとえば、有名な箇所にこのような言葉があります。
自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。
ルカの福音書6章32-24節(口語訳)
しかし、愛に根ざした生活をする中で、自分の愛のなさに気づかされていきます。そして、自分の愛には限界があるということを思い知らされる時、初めてキリストの愛に目が開かれていくのではないでしょうか。ですので、キリストの愛を知るということは、愛に根ざして生きていこうとする中で、自分の愛のなさを自覚していく歩みだと言えます。それが、クリスチャンにとっての成長であるように思います。
エペソ3章19節で「神の満ちているもの」と訳されていた「πλήρωμα」という語は、4章13節にも登場します。
わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
エペソ人への手紙 4:13(口語訳)
ここで「キリストの満ち満ちた徳の高さにまで至る」と訳されている箇所は、新改訳2017では「キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」、共同訳では「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」となっています。3章19節の「神に満ちているもの(τὸ πλήρωμα τοῦ θεοῦ.)」と4章13節の「キリストの満ち満ちた(τοῦ πληρώματος τοῦ Χριστοῦ)」の類似性に見られる繋がりを踏まえるなら、「神の満ちているもの」によって満たされるということは、すなわちキリストに似た者とされていくことだと言えるのではないでしょうか。そしてそれがまさにクリスチャンにとっての成長です。
成長というのは、一朝一夕に起きることではなく、日々の積み重ねです。それは日々愛に根差し、愛に基づいて生きる中で、少しずつキリストの愛を知る歩みです。それは同時に、自分の愛の限界に気付かされる歩みでもあります。人の体が成長する時には「成長痛」が伴います。同じように、クリスチャンとしての成長にも痛みが伴うように思います。自分に愛がないということを認めることは辛いことです。ですが、その痛みを経験する時に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知る一歩を踏み出せるのではないかとも思います。
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