このシリーズでは、パウロの終末論をさまざまな視点から学んできました。「すでに」と「いまだ」の緊張、キリストの死と復活の終末論的意義、からだの復活、再臨と審判、新しい創造、永遠のいのちと相続。これらのテーマは、いずれもパウロの終末理解の重要な柱です。
しかし、これらすべてが究極的に向かっている先があります。それが「栄光」です。
パウロにとって、栄光は終末論に付随するような飾りでも付録でもありません。すべてが最終的に向かう目的地であり、来たるべき時代の最も高い価値です。そしてその栄光を、この現在の時代において先取りする生き方が「希望」です。今回は、シリーズのまとめとして、パウロの終末論における「希望と栄光」について考えてみたいと思います。
「栄光(ドクサ)」とは何か
パウロは栄光について多くのことを語っていますが、明確な定義を与えることはしていません。キャンベルはこの語の背景を丁寧にたどりながら、パウロにとっての「栄光」の輪郭を浮かび上がらせています。
パウロが使っているギリシア語はドクサ(δόξα)です。キャンベルによれば、古典ギリシア語では「意見」「評判」といった意味を持っていたこの言葉は、旧約聖書のギリシア語訳(七十人訳)がヘブル語のカボッド(כָּבוֹד)を訳すために用いたことで、意味が大きく変わったとされています。基本的に、カボッドは「重さ」「豊かさ」「威光」を意味し、特に神の臨在がその場に顕れるときの圧倒的な輝きを指す言葉として用いられています。出エジプト記では、神の栄光が幕屋を満たし、モーセすら中に入ることができなかったと記されています(出エジプト40:34-35)。
キャンベルは、パウロにおいてもドクサは同様に、神の存在そのものの輝き、威厳、重みを表していると述べています。それは人間が作り出したり獲得したりするものではなく、神のうちに本来備わっている性質です。神の栄光は、創造において、復活において、そしてやがて来る新創造において、その輝きを現します。
隠された栄光、やがて顕わになる栄光
パウロの栄光理解には、独特の構造があります。それは、栄光が今は隠されているが、やがて顕わにされるという二つの局面です。
この現代において、神の栄光はすでに存在しています。しかし、それはまだ完全には顕わにされていません。パウロは第二コリント書簡で「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(2コリ3:18)と書いています。
パウロはこの箇所で、モーセが顔に覆いをかけた出エジプト記の記事を背景にしています。かつてイスラエルの民は覆いのゆえに神の栄光を直接見ることができませんでした。しかし信仰者は、キリストにあってその覆いが取り除かれています。完全に見えているわけではありませんが、覆いの向こう側にある栄光に、すでに触れ始めているのです。信仰の目をもって見ようとする者には、すでに栄光を垣間見ることができるのです。しかしその全貌は、まだ隠されています。
やがてキリストが現れるとき、その隠されていた栄光がすべての被造物の前に明らかにされます。コロサイ書ではこのように言われています。「わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。」(コロ3:4)。第6回の記事で見たパルーシア(王としての出現)は、まさにこの栄光の顕現の時なのです。
この「今は隠されているが、やがて顕わにされる」という構造は、シリーズを通して見てきた「すでに」と「いまだ」の構造と重なります。栄光はすでに存在していますが、その完全な現れはいまだ待たれています。信仰者は、覆いの向こう側にある栄光を垣間見ながら、その完全な現れを待ち望む者として、この時代を生きているのです。
栄光は分かち合われる
パウロの栄光理解で特に印象深いのは、栄光が関係的な現実として描かれている点です。
栄光は、神がひとり占めにするものではありません。神はご自身の栄光を、キリストを通して、信仰者と分かち合ってくださいます。パウロは「子どもであるなら、相続人でもあります。神の相続人であり、キリストとの共同相続人です」(ロマ8:17)と書いています。前回の記事で扱ったこの「共同相続」のテーマは、栄光の共有という文脈でこそ、その深い意味が明らかになります。
ここには、栄光の循環的な構造が見えてきます。栄光は本来、神ご自身に属するものです。その栄光がキリストにおいて顕わにされ、キリストを通して信仰者に分かち合われる。そして信仰者は、受けた栄光をもって神をたたえる。栄光は与えられ、受け取られ、再びださげられる。この循環の中心にあるのは、神の恵みです。
第一テサロニケ書簡では、パウロは信仰者が「ご自身の御国と栄光にあずかるようにと召してくださった神」(1テサ2:12参照)によって招かれていると語っています。栄光は単独で味わわれるものではなく、神とキリストと信仰者の交わりの中でこそ成り立つのです。
苦しみの向こう側にある栄光
ただし、パウロはこの栄光を安易には語りません。栄光は常に、苦しみとの対比の中で語られています。
パウロはローマ書でこう書いています。「今の時の苦しみは、やがて私たちに現されようとしている栄光に比べれば、取るに足りません」(ロマ8:18)。また、第二コリント書簡でもこう語ります。「私たちの一時の軽い患難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです」(2コリ4:17)。
「取るに足りない」「軽い」という表現は、パウロの苦しみが実際に軽かったことを意味しているわけではありません。パウロ自身、投獄、鞭打ち、難船、迫害など、過酷な経験を重ねてきました(2コリ11:23-28参照)。そのパウロが「取るに足りない」と語るのは、来たるべき栄光の圧倒的な重みの前では、あらゆる苦しみが相対化されるからです。
ここで大切なのは、パウロが苦しみを無視しているのでも、美化しているのでもないということです。パウロは苦しみの現実を正面から認めた上で、その苦しみの向こう側に、それを凌駕する栄光があることを確信していました。この確信が、パウロの信仰を支えた力だったと言えます。
希望とは何か
ではパウロは、まだ見ぬ栄光をどのように「今」の歩みに結びつけていたのでしょうか。その鍵となる言葉が「希望」(エルピス、ἐλπίς)です。
ここで確認しておきたいのは、パウロの語る希望は、現代の日本語で「希望」と聞いて思い浮かべるような、漠然とした願望ではないということです。パウロにとって希望とは、神がこれまで約束を守り続けてきたという事実に基づいて、神がこれからもなしてくださることを確信をもって期待する、神学的な態度です。
パウロはローマ書で「この希望は失望に終わることがありません」(ロマ5:5)と語り、同じ書簡で「目に見える望みは望みではありません。目に見えるものをだれが望むでしょう。もし私たちが見ていないものを望んでいるなら、忍耐をもって待ち望みます」(ロマ8:24-25)とも書いています。希望は、見えないものに対する確信に満ちた忍耐です。そしてその希望は、聖霊によって力づけられています(ロマ15:13参照)。
パウロの書簡を読むと、希望がどれほど彼の信仰生活を形づくっていたかがわかります。苦しみの中での忍耐は希望に支えられていました。倫理的な勧告も希望に裏打ちされていました。宣教への情熱も、来たるべき栄光への希望と切り離すことができません。希望がなければ、パウロの信仰生活は成り立たなかったと言っても過言ではないでしょう。
希望は栄光の「この時代」における姿
ここで、シリーズ全体を振り返りながら、パウロの終末論の核心に目を向けたいと思います。キャンベルはこのように指摘しています。
Ultimately, hope is the present-age counterpart to the glory of the age to come. While the age to come will be defined by glory, the lives of believers in this present age ought to be characterized by hope. Thus, hope and glory become the twin elements that shape Paul’s eschatological thought. Hope exists now in anticipation of the glory to come.
Constantine R. Campbell, Paul and the Hope of Glory: An Exegetical and Theological Study (Grand Rapids, MI: Zondervan Academic, 2020), 461–462.
[拙訳]究極的には、希望はこの現在の時代における、来たるべき時代の栄光に対応するものです。来たるべき時代が栄光によって定義されるのなら、この現在の時代における信仰者の生は、希望によって特徴づけられるべきなのです。したがって、希望と栄光は、パウロの終末論的思考を形作る対の要素となります。希望は、来たるべき栄光を待ち望むがゆえに、今ここに存在しているのです。
来たるべき時代は栄光によって定義される。この現在の時代は希望によって特徴づけられる。この対応関係は、シリーズを通して考えてきた「すでに」と「いまだ」の構造を、最も凝縮された形で言い表しています。
栄光はまだ完全には顕わにされていません。しかし希望を通して、信仰者はすでにその栄光の光の中に立っています。希望とは、栄光がこの時代において取る姿なのです。
パウロの終末論は、恐怖の神学ではありません。あるいは未来を予測する試みでもありません。それは、来たるべき栄光を確信しながら、この現在の時代を希望をもって歩むための神学です。苦しみの中でも希望を手放さず、見えないものに目を注ぎ、やがて顕わにされる栄光を待ち望む。パウロが生涯をかけて生きたのは、そのような信仰の姿勢でした。
ぼくどくメモ
このシリーズを書き続ける中で、パウロの終末論が予想以上に「今」の信仰生活を形づくるものであることに気づかされました。終末論というと、どこか先のこと、最後のことという印象がありましたが、パウロにとっては、今日をどう生きるかのすべてが終末論によって方向づけられていたように思えます。
「希望は栄光のこの時代における姿である」という視点は、特に心に残ります。私たちが日々の祈りの中で、礼拝の中で、あるいは苦しみの中で抱く希望は、単なる気休めでも強がりでもなく、来たるべき栄光がこの時代に差し込む光のようなものなのかもしれません。
そもそも、今回「終末論」についてまとまった記事を書いた動機は、昨今広がりつつある終末理解が非常に極端なものに思われたからです。終末論と聞くと、そのセンセーショナルな響きゆえに、不安が煽られたり、恐怖心を持ったりすることがあります。ですが、キャンベルはじめ、多くの神学者たちが指摘しているように、終末論とは決して、今世間で騒がれているような類のものではありません。
このシリーズが、読者の皆さんにとって、終末論を「怖いもの」「遠いもの」ではなく、「今を生きる力」として受け取り直すきっかけになれば幸いです。
参考文献:C. R. Campbell, Paul and the Hope of Glory (Zondervan Academic, 2020)
